MIHO LEGEND 美保伝説

美保伝説

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第2話 奇跡のプレイオフ

2003年11月23日大王製紙エリエールレディスオープン。
今回も私は自宅で応援しておりました。いつものようにインターネットでLPGAのホームページを閲覧です。
最終日、美保は7バーディーを奪っており、もしかして優勝があるかもと思いながら、私は思わず美保と用具契約をして下さっているダンロップ(SRIスポーツ)の担当の方に電話を入れます。
担当の方は「美保ちゃん、頑張りましたよ!東尾理子選手とプレーオフです。」と息巻いております。
このときは一年間に2勝も出来るなんて夢にも思っておりませんでしたが、娘が、優勝争いのプレーオフをするとの一報に、嫌でも胸が高鳴ります。

東尾選手は美人ゴルファー(今でもすごく美人です)として活躍されており、私が東尾選手に初めて話しかけたのが、当時、熊本で開催されていた「再春館レディース」の前夜祭でのことでした。
地元アマチュア選手として、まだ中学2年生の美保を連れて、半ば修学旅行気分で始めてプロツアーの前夜祭に出席させて頂き、緊張しつつも色んなプロにサインをもらったりしておりました(笑)。そんな時に、アイドルプロの東尾選手発見、と言った具合で、挨拶してサインをもらいました。
そんな東尾選手とのプレーオフ1ホール目。新旧アイドル対決、ティーショット、セカンドショットともほぼ両者互角。勝負はパットにかかります。
先にパーパットを沈めた東尾選手。テレビには、来賓席に父の東尾修氏の祈るような姿が映ります。
美保は決めれば優勝の8メートルのバーディーパットです。本人曰く、「打った瞬間、あっ、左に引っ掛けた」と思ったそうです。
しかし、ボールは意に反して、スライスラインに乗り、見事カップイン。8メートルも距離があり、バーディー狙いではなく、パーセーブして次のホールに繋ぐパット。そのパットがウイニングパットとなりました。
美保自身、驚きの表情がテレビ画面に映し出されます。この前初優勝したかと思ったら、年間2勝目です。
私としては感無量です。1勝目と言い、2勝目と言い、美保が優勝するときには何か特別なことがあるんだなあと感じます。
今度は、清元先生より電話がありました。1勝目の祝勝会の件を覚えていて下さったのか、「もう2勝したから祝勝会をしても良いのでは」との電話がありました。
ですので、私が「まだまだこれからですから。偉業を成しえたときのために祝勝会はとっておきます。」とお答えすると、先生は「あなたも肥後もっこすね」とおっしゃりました。肥後もっこすとは熊本人を指す言葉で、頑固一徹のような意味合いです。

月日が経ち、あるゴルフ誌の取材で、東尾修氏との対談取材を行いたいとの連絡があり、私は、喜んで受けました。東尾氏が熊本の我が家までいらっしゃり、美保と一緒に座談会です。
取材のはじめに、東尾氏が冗談交じりに「何でうちの娘の初優勝を邪魔するんだ」と笑いながら話され、とても気さくな方だなあと印象に残っています。
一通り取材が終わり、東尾氏と私は、野球談義に花が咲きました。東尾氏は皆さんご存知の通り、名投手・名監督で、野球の話になると、かなり熱くなられます。
私が昔野球をしていたことを娘からお聞きになっていたのか、「お父さんは、投げると何キロくらいのスピードが出ていましたか」と訊ねられたので、「そうですね、昔のことですが、120キロくらいのボールを草野球で投げ、かなりボールがホップしてましたね。」と答えると、東尾氏はむきになられ、「120キロくらいじゃ、絶対にボールはホップしないよ」と野球のことになると真剣そのものだなあと、今でも思い出します。

2時間程、話をさせていただいた後、当時私が熊本のシニアリーグの監督をしていた為、東尾氏が練習に付き合って下さるとおっしゃりましたので、グランドに生徒たちを集め、東尾氏の指導を仰ぎました。
グランドでは、生徒たちに「両親への感謝」「野球の技術論」「野球の出来るありがたさ」をミーティングで30分ほど語って頂き、生徒たちも初めてのプロで監督までされた方のお言葉に、耳をしっかり傾けて、心から聞いていました。東尾氏の言葉が、生徒たちの血となり、肉となればと思います。

私が監督を務める野球チームに指導をしていただきましたので、東尾氏と事務所の方を再度自宅に招き、食事会です。
写真を一緒に撮らせてもらったり、またまた野球の話になり、日付が変わる夜の12時くらいまで酒を酌み交わしたものです。東尾氏も私も熊本の馬刺しを肴にあっという間に焼酎を一升飲みあげていました。

次回は3勝目・樋口久子ゴルフ殿堂入り記念IDC大塚家具レディスをお伝えします。

美保語録 入るときは、たとえミスパットしても入るし、入らないときはラインが読めても入らない。

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