MIHO LEGEND 美保伝説

美保伝説

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第1話 初優勝

 いつも古閑美保を応援して下さっているファンの皆様、長らくお待たせいたしました。美保パパこと、古閑宏二郎です。以前このホームページでつづりました「古閑美保物語」の中で最後に、「その後のことは皆様方ご承知の通りです。」と結びました。が、プロになってからの美保のエピソードや優勝シーンの思い出話、古閑家の裏話などを皆様にお伝えしようと、久しぶりにペンを取らせていただきます。

 まず、第一話は2003年8月29日から8月31日に新潟県で開催されたヨネックスレディースゴルフトーナメントで、初優勝したときの古閑家のエピソードについてふれてみたいと思います。

 思い起こせば、美保には私が「プロになって初優勝したときは、お願いだからお父さんに、一回でいいからプロ野球で優勝したときみたいなビールかけをさせてくれ」と頼んでいました。

 大会2日目の夜。私は美保のプロテスト受験と同じように、深夜12時に妻と姪っ子の佑佳ちゃんが見守る中、私がパンツ一丁になり、家の外で水をバケツ100杯かぶる水行を行いました。熊本県では朝晩と寒くなり始める季節で、熊本最大のお祭り「藤崎八幡宮秋季例大祭」通称:随兵(ずいびょう)が行われる季節でございます。この季節の朝晩の寒さを「随兵寒合(ずいびょうがんや)」と言います。そんな寒い夜でした。水道の水は、はじめは温いのですが、1杯目から30杯目、50杯目を過ぎると、心臓が止まるほどの冷たさになります。途中で何度もやめようと思いましたが、優勝を争っているのが後に、清元先生以来アマで30年振りに女子プロツアーでの優勝という快挙を成し遂げる宮里藍選手ではありませんか。当時アマながら、プロに勝る勢いの藍ちゃんに、負けさせるわけにはいきません。私は、なんとしても美保を勝たせたいと、息が止まる思いを押し殺して、傍で数を数えてくれる妻の声を聞きながら、最後の100杯まで水をかぶりました。100杯目の水をかぶった時は、「明日は絶対に勝つ!」と気合をいれ、すぐさま自宅の風呂場に直行し、温かい風呂にドボーンと入ったことを今でも覚えています。

 ヨネックスレディース最終日の最終組は平均年齢19.7歳と若手選手が台頭し、昨今の女子ゴルフ界を象徴する試合であったように思います。最年長が美保で21歳。それまでは、最終日最終組を若手選手だけで回るなんてことがあったでしょうか。

 自宅で応援しておりました私は、美保をマネジメントして下さっている株式会社フォロースルー社長の山下氏が現地で観戦しておりましたので、携帯電話のメールで各ホール実況してもらっておりました。最終ホールの実況メールで、山下氏から「ティーショットが右にふけました。ひょっとしたらOBかもしれません!」とのメールが来て、どきっとしました。というのが、それまで美保は、試合の大事な場面で、よく右にふけ球を打ち、結果OBになり、優勝戦線からはずれ苦汁を飲んでいたのです。嫌な思い出が脳裏をよぎります。数十秒後、山下氏から「良かった!OB杭、数十センチ手前にボールがありセーフです!」との実況に、思わず「よっしゃー!」と私。そこから自分を取り戻したのか、落ち着いてグリーンに乗せ、2パットで優勝を掴み取りました。優勝した報告を電話で聞いたときには、天にも昇る思いで、ほっと肩をなでおろしました。それから、親戚や友人から初優勝の祝福の電話があり、みんなを自宅に呼び、祝勝会を開催です。30名ほどで行いました。そのとき私はビール40本を頭からかけてもらい、ようやく念願が叶ったと思ったものです。

 テレビを見ていて、優勝インタビューを受ける美保ですが、アナウンサーの「優勝報告を誰に一番にしたいですか」との質問に「自宅でテレビを見ているお父さんとお母さんに一番に報告したいです」と涙ながらに話しているのを観て、私は喜びのあまり、すぐさま美保や清元先生に電話をしました。美保には「この一勝は通過点ばい。日本一の娘を持ったお父さんは、日本一幸せたい。」と話し、清元先生にはまずお礼を申し上げ、地元熊本のホテルでの盛大な祝勝会の話を持ちかけると、先生は「たった一勝したくらいで何を言ってるんですか。そんなことでは二勝目は無いですよ!」と叱られました。やむなく祝勝会は無しということで、清元先生の厳しさをまざまざと知らされた日となりました。先生からすれば、一勝したくらいで、お父さんが浮かれていたら美保が駄目になってしまう、と母親の気持ちで厳しく諭して下さったのだと思います。

 次回は、先日石田純一さんとご結婚なさった、奥様の東尾理子選手との大王製紙エリエールレディースオープンのプレーオフでの優勝エピソードをご紹介いたします。

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