MIHO’S  PERSONAL HISTORY 古閑美保の生い立ち

古閑美保物語

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第3話 やんちゃな幼少期 ②

1歳を過ぎると美保は何にでも興味を示しました。
私は色んなものに興味を示す美保を満足させるため、仕事から帰って来るとすぐに抱きかかえ、背中に帯でおぶり、近くを毎日散歩してました。

その光景を見かねた裕子の母が、「見苦しかけん、お願いだから宏二郎ちゃんに帯で背負わせる事だけは、止めさせて」と言われたそうです。
それは、私が余りに若いお父さんで、うちの他の家族が誰も美保の面倒を見てないと思われる事が嫌だったのでしょう。なんせ私は、その当時、若干20歳の青年でしたから。

仕事が終わり散歩から帰ると、美保と一緒に風呂に入り、晩酌の時には左膝に美保を座らせて一杯やることが日課になっていました。
お陰で、他の事にまったく興味が無かったように思います。例えば、友達から一杯やろうかとか、飲みに行こうとか誘いを受けても、一切断ってました。美保と一緒にいた方が楽しかったわけですから。
ただ、仕事絡みで、どうしても断れないときは、美保を一緒に連れて行っていました!帰りが例え午前様だろうと、私が訪問先で美保を寝かせて連れて帰ってました。裕子も祖母も呆れていましたね。
私は、美保と”一卵性親子”を自負していますが、今思えば、それぐらい自分の子供とは可愛いいものですね。
幼児期の教育は3歳までに決まるとか、色んな著書に書いてありますが、私の場合、ただ、可愛いくて仕方がない、大袈裟に教育などと言うものではなく、単なる娘を愛する馬鹿親父だった気がします。

仕事帰りには何かしら、近所のおもちゃ屋でおもちゃを買って帰り、美保の喜ぶ顔見たさに日々をすごしていました。
日曜日ともなると、川や海、山と色んなところへ美保を連れて行き、私の人生において一番充実していたように思います。熊本市の繁華街、上通りや下通りへ美保を連れて行ったりすると、大体「あれ、美保がいない!」と慌てて探すことになります。
展示してある洋服の間に隠れていたり、興味があるもののところへ勝手に行ったりして、常にじゃじゃ馬娘っぷりを発揮していました。
じゃじゃ馬なものですから、妻は美保の面倒を見るのに手を焼いているようでしたが、私はそれくらいワンパクな娘を見てほのぼのとしていました。

また、次回お会いしましょう。

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