FINAL ~永遠に~

美保伝説

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第3話 心の師

美保にとりまして、技術の師であり、心の師である清元登子先生。
美保が引退前、「横浜の介護施設に入所なさっている清元先生の所に度々足を運んでいる」と、美保本人より連絡がありました。

 早速、私、家内、次女(理沙)、孫(大和)を連れ清元先生の所にお見舞いに行きました。清元先生は、脳梗塞で倒れられ、朝方に発見されたことが致命傷となり、右半身麻痺、言語障害などの症状をおこされていました。

 二年後、私どもが再び施設を訪ねた時には普段の会話も出来ておられ、鬼の清元・女武蔵と呼ばれていた熊本猛女の如く、日に日に回復へと向かわれておられました。また、孫・大和の成長にびっくりされていました。

 清元先生との思い出は色々ありますが、私はよく一緒に呑ませて頂いていました。清元先生は酒が強くて、いつも毅然とした態度で全く酔っぱらわない方です。「この方は本当に人間なの?」と思い知らされていた私です。

 そんな清元先生も、一度だけ遅刻された事があります。「人間、年には勝てず」の言葉もありますが、私が美保の応援で行っておりました我孫子カントリークラブでの出来事です。試合当日、清元先生に何度も電話連絡したが繋がらず、会場へ到着されたのがお昼過ぎでした。今思えば、この時から脳梗塞の予兆の始まりだったのかもしれませんね。清元先生は、どんなに早朝の試合でも、不動選手、大山選手、美保より先にコースへ入り、極寒の寒さの中でも微動だにせず腕を組み、一人一人を鋭い眼光で見ておられ、帰りの際も先生が最後でした。この流れが先生のルーティンだったと聞いております。

 私は美保へ、例え、先生がお亡くなりになられたとしても「心の師」として仰ぎなさいと伝えております。昔の方はよく言ったもので「三尺下がって師の影を踏まず」。

 清元先生が見守り続け、育てて頂いた美保。

 子でも孫でもない、人様の子を火の粉を背負って育てて頂いた恩恵に感謝し、いつの日か、美保も清元先生と同じ心で弟子を育ててほしいと願います。その事こそが、清元先生への恩返しになれば…と私は念じております。 拝

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北斗晶さんへの手紙



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