MIHO’S  DADDY’S JORNEY DIARY 古閑美保の四国八十八カ所巡り日記

煩悩 四国八十八ヶ所巡り日記

ばっくなんばぁ

第5話 逆打ちの始まり

十三番札所大日寺から18番札所奥山寺までは、約30キロの道のりで、意外と近くに隣接しておりましたので、一気に札を打つことが出来ました。
鮎食川を眺め、眉山を右手に見て徳島市の国道192号線を市街地へと進み、市街中心部を通過し、小松島市へ。
はじめは、一般道は少し恥ずかしい思いがありました。
しかし、四国ではお遍路さんを歓迎してくれるのです。道中、「お接待」と言って、パンを頂いたり、ジュースを頂いたりして、それはそれは親切なのです。
お遍路さんに親切にすると、お大師様と同行二人なので、お接待した人にもご利益があると信じられているのです。

さて、先週の「逆打ち」の始まりを私ながらに説明してみたいと思います。
逆打ちは次にする話の人物が初めに行ったものだと思います。
昔、河野衛門三郎という豪氏の家系で、庄屋を営み、村の人々から悪鬼長者と恐れられていた人がおりました。
年貢の取立ては容赦なく、召使にも辛くあたり、性格も横暴で、困っている人などは見て見ぬ振りだったそうです。思いやりの欠片もなく、まさに鬼のような人でした。
そこへ一人の僧が托鉢に現れるのです。
すると衛門三郎は「乞食坊主にくれてやる物など無い」と罵声を浴びせ追い返しました。
僧は、何度追い返されようと、次の日には門前に現れます。文殊菩薩様のお導きと、七日間通い続けました。
そして八日目の朝、衛門三郎は「また来やがったか。そんなに物が欲しいなら」と竹箒で僧の持っていた鉢を打ち落としました。地面に落ちた鉢は八つに割れ、光明を放ちながら空高く舞い上がり、山の彼方へ消えていったそうです。この山は八降山(八窪)と呼ばれるそうです。
衛門三郎は他人には鬼の様な人物でしたが、我が子には愛情深く、人一倍子煩悩で、妻にも優しい五男三女の父親でした。
お大師様の鉢を叩き落した翌日から、長男が高熱を出し、あっという間に亡くなってしまいました。悲しむまもなく次男、三男と子供たちは次々と皆、病で亡くなりました。
子煩悩の衛門三郎は悲しみにくれ、毎日泣き過ごしました。
後に、村の人から、竹箒で鉢を叩き落した僧が、弘法大師であったことを知らされ、愕然とします。
衛門三郎は自分の非道を深く恥じ入りました。
その日から、ひと目お大師様にお会いし業を浄化してもらおうと、遍路の旅に出たのです。
途中、文殊院の住職にお大師様のことを尋ねると、衛門三郎の子供のために毎日お経をあげ、菩薩増を彫り、写経をし供養されていたことを聞き、自分を恥じ、改めて深々と懺悔しました。
心の底から祈りを捧げ、自分の悪行を懺悔しつつ、来る日も来る日もお大師様と再会するために歩き続けました。
やがて八年の月日が流れ、気付けば四国霊場を二十回も廻っていたのです。しかし、お大師様とは会うことができません。
衛門三郎はつくづくと考え、お大師様の後を追うだけではいつまでも会えない。ならば逆に廻ってみたら会えるのではないかと考えたのです。
そう思った衛門三郎は徳島県十番札所切幡寺から逆回りに歩き始めたのです(天長八年閏年)。
逆打ちをはじめたある日、村人から「衛門三郎の妻が、いつまでも帰らぬ夫を心配するあまり、病に倒れ亡くなってしまった」と聞かされました。
お大師様と会って許しを請うまでは家に帰らないと決めていた衛門三郎は、村人に見られぬよう妻の墓へ行き、一晩中墓前で泣き明かしたと言います。
それから身体はぼろぼろになり精魂尽き果て、自身も病に侵されとうとう動けなくなってしまいました。
そこへお大師様が現れ、死に際の衛門三郎に「あなたの罪業は既に消えています。何か願い事があればひとつ聞き届けましょう」とおっしゃりました。
衛門三郎は涙を流しながら、「願わくば伊予の国主の嫡男に生まれ変わりたい」と伝えました。
するとお大師様は小石を拾い上げ、衛門三郎再来と小石に書き、衛門三郎の手に握らせたところ安らかに息を引き取ったそうです。
お大師様は衛門三郎の墓を作り墓標として衛門三郎の金剛杖を逆さまに立てたところ、その杖から芽が出て大きな杉になりました。以来その場所を「杖杉庵」と呼ぶようになったそうです。
悪い行いをするのは簡単ですが、その行いを悔い改めるのは大変なのです。

長くなりましたので、衛門三郎再来の話は次週に致します。

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