MIHO’S  DADDY’S JORNEY DIARY 古閑美保の四国八十八カ所巡り日記

煩悩 四国八十八ヶ所巡り日記

ばっくなんばぁ

第3話 十二番札所への道のり

七番札所の十楽寺を出て、八番札所熊谷寺、九番札所法輪寺までの道のりは意外と近く、足のマメを潰し、絆創膏とテーピングで補強したことにより、さほど痛みはありませんでした。
辺りの景観を眺めたり、吉野川の大きさを満喫したり、楽しみながら歩いたものです。

私が歩いた時期は5月から7月にかけて、ちょうど梅雨と重なり、あまり良い条件ではありませんでした。普通は春先や秋がお遍路をするのにうってつけの時期だそうです。

2日目の終点は十番札所の切幡寺です。
切幡寺の333段の石段はきつかったと私はお遍路日記に書いております。11.7キロを歩きました。
近くのさくら屋旅館と言うところに一泊したところ、さくら屋旅館の店主から「お兄さん、あんたが履いている靴では明日の焼山寺は登れないよ」と言われ、近くの靴屋さんで山登り用の3760円の軽い靴を購入しました。
それもそのはず、美保のスポンサーのプーマ様から送られてきた新品のゴルフシューズを履いてきたのですから、マメが出来るのも当然のことですよね。
そのゴルフシューズは店主にプレゼントし、リュックサックの中身を軽くし、シューズも柔めのもので、いざ出陣!

3日目、朝6時にスタートし、十一番札所の藤井寺、十二番札所の焼山寺を目指します。
いよいよ最初の難所の焼山寺です。遍路転がしと呼ばれる、八十八ヶ所の巡拝の中でも険しく苦しい山道。今日は二札所しか打てません。
ちなみに一札を打つとは、昔の人はお遍路をし、寺に行った際には自分の名前を書いた納札(木)を釘で柱に打っていたそうです。そこから一札を打つと言うようになったそうです。
地獄の焼山寺も何度裕子、美保、理沙の名前を呼んだことでしょう。心が折れそうになったことも数知れません。山を登りきり、焼山寺に辿り着いたときは、涙がこぼれ落ちました。
寺に着き一句綴った言葉が日記に残っています。
「一時の恵まれし我が身に溺れず、子孫末代までの苦行心、伝授する我ここにあり!」
お大師様(空海)の辿り着いた境地とは「空」の一字だったそうです。
本当に焼山寺の山は険しかったです。

途中の道すがら、一人の女性遍路が休憩しておりました。
その女性は私と同年代くらいだったので、挨拶も兼ねて話しかけてみました。
何でまだ若いのにお遍路をしているか尋ねると、前の年に旦那様がお亡くなりになられ、忘れられなくて死にに来ましたと言われました。
私は間髪要れず、絶対死んではいけないと諭し、「生きたくても生きれない人もいるのだから、命を粗末にしないで下さい」「そんなに死にたかったら、その人たちに命を差し上げてください」と言い、二人で涙ながらに下山しました。下山している途中、私の大好きな河島英伍さんの「生きてりゃいいさ」を、下手くそですが、少しでも女性のためになればと思い歌ってあげました。
その女性遍路は徳島県を一国打ちして帰ると言い、最後まで結願(けちがん)することを約束し別れました。
後日、美保が私の願いでもある賞金女王になったとき、「お父さんよかったね。お大師様が願いを叶えてくれたんだよ」と、手紙をわざわざ送ってくださいました。
その手紙には最後に、「私も頑張って生きていきます」と書いてありました。

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