MIHO LEGEND 美保伝説

美保伝説

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第6話 最後の水行

長いゴルフ人生の中では色々なことがあります。
特にメンタル面でのハプニングは、その選手の選手生命が危ぶまれることも多々あります。
私は野球でもゴルフでも、スポーツにおいては環境が一番だと思っております。
どんなに素晴らしい選手でも、家族の指針ひとつでどうにでもなるのです。
心の支えである父母、兄弟に何かあれば、少なからずその影響は選手に及ぶと思います。
メンタルスポーツであるゴルフにおいて、選手の心理面をサポートする役目こそ家族が担ってあげなければならないと、私は考えます。

2006年のオフシーズン。美保は清元先生の手を離れ、一人立ちしました。
私は今回の試合(2007年マスターズGC)を、一人立ちした美保がどこまで戦えるのか、不安と期待が入り混じる中、自宅で応援しておりました。
清元先生の手をどうして離れるのか。皆さんもお知りになりたいですよね。
高校3年生の頃より指導を受けた先生を一度離れると言うことは、よほどのことがあったのだとお思いでしょう。私には、「今後プロで戦っていく上で、自分で考えてゴルフをしたいから、次のステップに進みたいから」、といったことを言っておりました。成績が悪いときに、自分で悪いところを修正できなくては、一流ではないと考えたのでしょうか。
私が美保にアドバイスしたことは、「清元先生のことをゴルフ以外においても人生の師匠とし続けるなら、自立するのも良いのでは」とだけ伝えました。
美保にとって自立した後どれだけやれるのか、私も先生も一人立ちする娘を、木の上に立って眺めてみようと思ったのです。親という字は木の上に立って見ると書くじゃないですか。

そんなこんなですが、私は美保の一番のファンです。
2連覇(マスターズGC)の懸かる大事な試合に、居ても立ってもおられません。
私に出来ることと言えば、ただ祈ってあげることくらいしか出来ません。祈るということを私に教えてくれたのが、私の友人であります。今回は名前は伏せておきますが、T.Iさんとでも書いておきます。
その人は絶大なる美保ファンで、ひょんなことから友達になったのですが、T.Iさんが私にくれた手紙の中で、「ファンの皆んなは、それぞれ祈ることぐらいしか出来ない」と、切なる思いを教えてくれました。
私は涙ながらに、そのことを教えてくれたお礼を、感謝の手紙として返送しました。
試合の最終日前夜には、祈っていましたが、堪らなくなり、封印したはずの水行を決行したのです。
封印した理由は、私も年をとり、10月下旬ともなると心臓発作を起こしかねないので、自分の身体を労わる意味で水行をやめておりました。
しかし、私の体のことなんて構ってられません。空手道着をきて水行バケツ100杯、頑張りました。水行の最後に、またしても「明日は絶対勝つ!」と雄たけびを上げ、結願しました。

試合の最終日は2007年10月21日。
場所はマスターズゴルフ倶楽部。大会連覇の懸かる試合です。
首位と2打差でスタートした美保は、1番でバーディーと幸先良いスタートを切ります。
しかし、3番ではグリーン奥のぬかるんだライにボールを入れ、この日最大のピンチが訪れます。
美保は、奇跡的に脱出成功し、パーセーブ。
ここから怒涛のバーディーラッシュで、この日6アンダー、トータル9アンダーとし、2位と4打差の完璧なゴルフで、丸々一年ぶりに優勝しました。
勝利インタビューでは「今日は奇跡が三回ありました。3番をパーセーブしたことで、気分がのり、11番チップイン、16番ロングパットと決めることができ、ついていました。」と話しています。
勿論ファンの皆様方の応援の賜物ですが、前日に水行をしている私は、否が応でも「私の思いが天に届いたのか」と思わざるを得ません。
また、別の紙面には「清元先生と離れ自分で考える時期があったからこそ、今の自分がある。」とも書いてあり、一歩成長した娘の姿に感動しました。

私が会場に行っていない時には、優勝をすると必ず一番に電話をしてきます。
私も美保からの喜びの電話を待ちます。
幼少の頃から吉報は私に1番、妻に2番と報告の順番が決まっています。
親の喜ぶ顔が見たいのか、運動会で1等賞になったときも、こうして優勝をしたときも一番に報告をしてくれる娘を持った私は幸せ者です。

次回は同門・不動選手との国士無双の一騎打ち対決をお送りします。

美保語録 勝つときはファンの力が後押しし、ゴルフの女神が微笑む

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