MIHO’S  PERSONAL HISTORY 古閑美保の生い立ち

古閑美保物語

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第14話 最終話

美保が初めてプロトーナメントに出場したのが、熊本で開催されていた再春館レディースです。
中学2年生のときに、出場させて頂いた大会では、当然マスコミが騒ぎ、私自身も浮かれておりましたが、見事予選落ち。涙ながらにインタビューに答える美保の姿が映像で流れました。
翌年の大会で、初めてプロトーナメントの予選を通過し、堂々の13位に食い込みました。世間を「あっ」と驚かせました。

その後、東海大学付属第二高等学校へ特待生として入学し、数々のプロのトーナメントにも顔を出し、先輩プロゴルファーからも大変可愛がられる存在になりました。
高校2年生の時に出場した、日本女子オープンでは、初日3位と好発進、決勝で9位に食い込み、見事ローアマのタイトルを初めて獲得しました。
ローアマを獲得したことでプロテストが3次試験のみの特権待遇を受けることが出来ました。
プロになるか進学するかで、お世話になっていた坂田プロと何度も話し合いをしましたが、美保が断固プロになると強い意志を示し、ついに決別となりました。
美保にとって、2度目の師との別れでした。

その後、女武蔵と呼ばれた不動プロ、大山プロの師でもある清元登子先生に師事することになりました。さすがに先生の練習は厳しかったらしく、朝5時から夜7時までゴルフ漬けの毎日を過ごしておりました。
今日の美保がいるのも、まずは坂田先生、そして清元先生、二人の師のお陰だと本当に感謝しております。
昔の人の言葉で「三歩下がって、師の影踏まず」の古事がありますが、今も美保はそのことだけは実践しているように思います。

話は変わりますが、ゴルフのゴの字も知らない私が、初めて美保のキャディーを買って出たのがサントリーレディースでした。その後、日本女子アマ、日本女子オープン、世界大会の武富士クラシックとゴルフバックを担ぎました。
ハワイで行われた武富士クラシックを最後に、美保はプロテストを受けることを決意します。

プロテスト受験に関して、清元先生との話し合いの結果、一次試験・二次試験をパスしないものが三次試験を乗り越えられるはずがないという結論に達し、一次試験から受験しました。
見事一発合格でした。その後のことは皆様方ご承知の通りです。

私はと言いますと、素晴らしい愛娘のお陰で、世界各国を巡ったり、美保の願掛けで四国八十八ヶ所を歩いて回ったり、趣味の庭作りに興じたり、悠々自適な生活をしておりましたが、3年前にあまり贅沢をしすぎたせいか、脳梗塞で倒れ、死後の世界を見てまいりました。
今ではすっかり回復し、美保から叱られるので、酒・煙草を少し減らしております。

美保物語は今回で最後となります。ご愛読、誠にありがとうございました。
美保の話は皆様方ご存知の方も多いと思いますので、次回からは、僭越ながら私・宏二郎の四国八十八ヶ所巡りを更新して参りたいと思います。引き続きご愛読頂ければ幸甚です。

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