MIHO’S  PERSONAL HISTORY 古閑美保の生い立ち

古閑美保物語

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第1話 美保の誕生

ゴルフファンの皆様、いつも美保を応援して頂き、ありがとうございます。
このホームページを通して、私(美保の父)と美保のゴルフとの出会いや、美保の生い立ちなどを、勝手ながら私の気の向くままに綴らせて頂きたいと思います。

まず僭越ながら、私の略歴をお話し致します。
私は昭和36年12月9日PM3:40、北九州市にて生まれました。
生まれたときには皮膚が弱く、肌にたくさん湿疹があったそうですが、私の母いわく、診察なさった先生が「この子の末は博士か大臣になる」と言っていたそうです。現在、私はそのどちらでもなく、診察して下さった先生の期待にはそぐえませんでしたが、美保という娘を授かったことに感謝しており、先生はそれを予見していたのかもしれません。

私は出生後、北九州市で幼少時代を過ごし、現在自宅がある熊本に移り住みました。
熊本では田畑を駆け巡り、川で魚捕りなどをして遊びましたが、小学校、中学校の時分には野球に励み、自ら言うのもなんですが、住んでいる地区の中では野球が上手かったほうだと思います。高校進学時には当時の熊本工業大学高等学校(現文徳高校)の藤本監督に見初められ、特待生として同校の野球部に入部しました。一年生の夏からベンチ入りし、藤本監督から期待されておりましたが、上級生のしごきに反発し、高校2年の夏に中途退学してしまいました。
それからは社会に出て、一生懸命に仕事をし、遊ぶときはとことん遊びました。右も左も分からないまま我武者羅に頑張ってきました。

私が17歳のときに地元で夏祭りがあり、そこで、生涯の赤い糸で結ばれていたかのように妻・裕子との出逢いがありました。
しかし、私がやんちゃだったせいか、妻の周りの家族からは交際に関して、猛烈な反対を受けていました。
そこで私と妻は、ついに駆け落ち同然に家を飛び出し、二人の生活を茶碗二つからはじめました。今思うと、家を飛び出すことは非常にパワーがいることですが、それだけ妻を愛していたし、そうなってよかったなと思っています。

二人の生活がスタートしてまもなく、待望の子供ができました。
その夜に満点の星空に流れ星を見、生まれてきた子供を星飛雄馬のように育てようと決意しました。その子供こそ、私の宝「古閑美保」でした。

美保は生まれたときは体重が3760g、身長53cmの大型ベビー!あまり泣いたりせず、よくミルクを飲み、よく寝る子でした。
お陰で、まるまると大きくなり、足柄山の金太郎さんみたいに育ちました。ただ、一旦泣き出したら、3~4時間ぶっ続けで泣く元気な赤ちゃんでありました。
私が思うに、他のお子さんよりも段違いに大きく、寝返りやハイハイ、歩き出したのも早かったように思います。親の欲目かもしれませんが…。
次回は、美保の幼児期のことをお話します。

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