FINAL ~永遠に~

美保伝説

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第13話 自転車

 私が自転車に乗るキッカケとなったのが、従弟で競輪選手の藤村照彦なる、弟同然の面白い男がいます。2008年10月に脳梗塞になり(次女・理沙の結納前夜でした(汗))3ヵ月ほどのリハビリに励む中、病院へ見舞に来てくれた事もあり、照彦に自転車を教えてくれ!と、これもまた思い立ったが吉日の私らしいですね(笑)近くの競輪選手も通うプロ専門の自転車屋さんへ足を運んでいたのです。

 アマチュアからプロまでの色んな自転車がそこにはありました。専門のアシスタントさんから、ロードバイクにも色々な種類があり…と説明を聞いている間、まさか「KOGA」という自転車があるではないか!?と、私の目に留まり即座に購入したのです。

 全てフルチューンした金額が…なんと93万円!!家内には、この金額で身体が…などと言い訳していたら、家内からは「また例の病気が始まりましたね!」の一言で一刀両断された事を昨日の様に思い出されます。

 それからの私はロードバイクに乗り、近くは俵山への山岳コース、遠くは阿蘇外輪山まで行ったこともあるのですぞ!!時には従弟の照彦と水前寺競輪場のバンクで練習したり、アマチュアの大会で見事1000Mトライアル部門で2位に輝いた事が、やはり私の才能なのかと我ながら感心しておりました。それからボチボチと練習に励んでいたのですが、家内が突然胆石の痛みを訴え、病院へ救急搬送され、その日に手術となりました。

 私は孫・大和の手を握り病院へ向かい、美保は宮崎での収録中、合間を縫ってマネージャーのなっちゃんと病院に駆けつけました。おかげで手術も「腹腔鏡」で胆のうを全摘出し、無事成功したのです。

 その二日後、私は近くの工事現場で作業をする、私の原点であります土木業の社長と出会いました。「今の私があるのは社長のお蔭だ」と話しているうちに、恩恵を忘れない私の性格上、身体が作業現場で自然に動いていたのです。そして長年廃屋となっており、また、現場監督さんでさえ分からなかったコンパネ板に私も気付かず、今思えば「バリバリッ」という音と身体が宙に舞うという一瞬の出来事に自分でも何が起きたかわからず、気付けば2メートル下の穴の中へ沈んでいたのです。

 もちろん無事で済む訳もなく、左足首の一番大きな腓骨を2ヶ所骨折しておりました。そのまま自力で病院まで軽トラックを運転し、歩いて診察室へ入りました。これには先生も驚かれ、レントゲンを撮り「古閑さん、骨!折れとるばい、あんた一人で運転して来たとね?」と呆れておられました(笑)

 次女の理沙は家内に「お父さんが足の骨を折った」と連絡しておりました。私は、大した事はない…と言ったのですが、家内はオペから2日後に退院し自宅へ戻ってきたのです。これにはさすがの私も度肝を抜かれまして、後で家内に「なんで帰ってくるとか?」と問うと「あんたの事が心配で入院しとる場合じゃなか!」という言葉が返ってきました。

 腓骨骨折していた私は3ヵ月の入院を余儀なくされ、長い入院生活を送ったのです。骨折箇所には合金チタンプレートを入れたまま3年間ほど過ごし、つい最近(2015年月)1週間の入院でプレートを抜釘しました。今では少しづつ自転車に乗り、骨折前と同様に走れるように身体を作っております。

次回予告 私の手掛けた趣味の盆栽の話です。



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